動摩擦係数

生きています

偶然の中和滴定

果たして、今までにやってきたことの何パーセントが、自分の成し遂げたことと呼べるのだろう。何歳に、どの大学のどの学科に行き、どこの会社を志望し、…その1つ1つの判断の中に、確かに僕の意思は存在した。しかしそれらは全て僕がこの国に生まれたという偶然からの派生物だ。僕は色々な偶然の集合体だ。そして、僕が目の前にいるこの女性と交際していないのも、偶然なのだろう。

大学の事務手続きの煩雑さについての愚痴に頷きながら、僕は彼女と交際している自分を捏造した。彼女の笑顔は素敵だ。思考が似ているので感情の共有もしやすいし、話もそれなりに盛り上がる。そして、彼女の、色々なことを考えた上で「普通」になっている状態は、僕にとっては実に魅力的だ。これは男女問わずだが、僕は「一周回ってる人」が好きだ。社会や人間関係、自己、そのような大量の矛盾の存在を認識しつつも、頑張って「普通」に存在している、そんな人間に魅力を感じる。矛盾に対する認識が深い人ほど魅力的だ。

僕は人と話すことが得意ではないが、彼女とは奇跡的に話が盛り上がり、僕は調子に乗っていた。舞い上がっていた。相手もこのひと時を楽しんでいると決めて疑いもしなかった。

自分のデザートを決め、彼女にメニューを手渡そうと差し出す。メニューを受け取る相手の手を見て、ここで彼女に“偶然の”スキンシップを仕掛けたらどう反応をするだろう、と想像する。相手も悪い反応はしないだろう。それはもはや妄想ではなく構想だった。相手の反応を見たいのではなかった。それは既に僕の中で確定していた。見たいのは、偶然がどう反応するか、その点に尽きた。交際していないという偶然が、交際するという偶然に変わるのか、変わらないのか?

アイスクリームの器を持つ彼女の手と、テーブルの上で組んだ自分の手を交互に見る。僕らは今、互いから1メートルくらいの距離にいる。地球上に80億人の人がいて、その中から無作為に選ばれた二人の人間が互いから半径1メートル以内にいるってのは、可能性としては無限に小さい。僕の手と彼女の手の間の距離は、その可能性と比べたら誤差みたいなもんだ。

そんなことを考えていたら、アイスクリームの器から手が離れ、彼女は立ち上がった。ちょっとお手洗いに、そう言って、彼女はアイスクリームの器に固定された僕の視界から消えた。

このタイミングは果たして彼女の意図なのか、偶然なのか?わからない。いずれにしても、偶然の実験は強制終了だった。僕は体を起こし、彼女の皿たちに自分の皿たちを重ね、財布の中に偶然残った紙幣を確認しながら、会計を先に済ますために店員を呼んだ。

 

どこかへ向かう急行

まもなく一番線に

急行〇〇行きがまいります

危ないですから

黄色い線の内側におさがりください

この電車は急行〇〇行きです

次は△△、△△

お出口は右側です

この電車は急行〇〇行きです

次は□□、□□

お出口は左側です

◇◇方面はお乗り換えです

ご乗車

ありがとうございました

まもなく二番線に

急行◇◇行きがまいります

危ないですから

黄色い線の内側におさがりください

この電車は急行◇◇行きです

次は□□、□□

お出口は左側です

この電車は急行◇◇行きです

次は△△、△△

お出口は右側です

この電車は急行◇◇行きです

次は終点◇◇、◇◇です

お出口は左側です

ご乗車

ありがとうございました

 

自分、好き、嫌い

自分のことが嫌い

自分のことが好き

自分のことが嫌いな自分が嫌い

自分のことが好きな自分が好き

自分のことが嫌いな自分のことを嫌いな自分が嫌い

自分のことが好きな自分のことを好きな自分が好き

自分のことが嫌いな自分のことを嫌いな自分のことが嫌いな自分が好き

自分のことが好きな自分のことを好きな自分のことが好きな自分が嫌い

 

自分のことが嫌い

自分のことが好き

自分のことが嫌いな自分が嫌い

自分のことが好きな自分が好き

自分のことが嫌いな自分のことを嫌いな自分が好き

自分のことが好きな自分のことを好きな自分が嫌い

自分のことが嫌いな自分のことを嫌いな自分のことが好きな自分が嫌い

自分のことが好きな自分のことを好きな自分のことが嫌いな自分が好き

 

自分のことが嫌い

自分のことが好き

自分のことが嫌いな自分が好き

自分のことが好きな自分が嫌い

自分のことが嫌いな自分のことを好きな自分が嫌い

自分のことが好きな自分のことを嫌いな自分が好き

自分のことが嫌いな自分のことを好きな自分のことが嫌いな自分が好き

自分のことが好きな自分のことを嫌いな自分のことが好きな自分が嫌い

 

空に心の琴線を張れ

空は広い

空は深い

その広さと深さに

救われたり、貶められたり

空に従って僕は振動している

 

電線がその空を横切る

電線は空を掌握している

空の鼓動を一番近くで感じている

それが何より羨ましい

電線のネットワークよ

僕の心の琴線と接続し

大空へと解放してくれないか?

 

よく切れる刃物

「ここに呼び出された時点で心当たりはあると思うが」

革製の椅子に深く腰掛けた役員が机越しに話しかけている。皮の椅子を装備した3人の役員という権力の塊に、パイプ椅子の僕が対面している。

4年前の最終面接の光景が蘇る。入社してから役員と話すことなど一度もなかった。最終面接以来のご対面である。そう考えると不思議なものだ、入社してすらいない段階でしか、会社の上層部と会うことがないというのは。

「今回の事態を踏まえ、マネジメントの方で、君の処分を検討してきた」

いや、心当たりなどない。彼らが何の話をしているのか分からない。

何も知らない僕と対照的に、役員たちは全てを知っているようだった。彼らの前の机上には何やら資料が拡げられているが、既にそれらに目を通したようで、彼らの乾いた視線は僕に注がれている。全てを吸い取られた資料は死んだようにそこに横たわっている。

「君はいい働きぶりを見せてくれた。周囲からの信頼も厚かった。しかし、今回の案件で我々の企業イメージに疵がついたことも間違いない」

まるで全世界が了解しているかのように勝手に話が進んでいく。

「会社としても、けじめをつけなければならない。君には、自主的に退職してもらうか、グループ内の別の部署への出向辞令を呑むか、この2つから選んでもらう」

雰囲気から察するに、出向というのは事実上の左遷だろう。しかしさっきから、一体誰の話をしているのだろう。これは本当に僕についての話なのだろうか。

別の役員が、二枚の紙を僕の方へと滑らせた。それはいらない。手元に置いてあるその資料。誰も見ていないその死んだ資料を、僕によこせ。

「簡単な話、このどちらかに署名して、明日までに提出してくれればいい」

退職願と、辞令の承諾書。静電気のせいか、紙はリニアモーターカーの車両のように滑らかな動きでこちらへ滑ってくる。その紙は、切れ味の良い研ぎ澄まされたナイフのように、スーッと脳に侵入してきた。気付いた頃にはもう遅い、そんなセリフが似合うと思った。

「何か言いたいことはあるか」

そのメタファーを連想して、これは自分に起きていることなんじゃないかと初めて気付いた。ここで抵抗しなければ僕は確実に死ぬ。そう確信し、言葉を発した。

「あの…何の案件で自分の責任が問われているのか理解ができません。人違いではありませんか?」

役員の表情が変わる。

「君、本当にそれを言っているのか」

「あれだけ拡散されておいて、なお白を切るつもりか」

「君がそういう人間だとは思わなかった…」

「いや、逆に、説明がついた気がするよ」

最初に言葉を発した役員が、死んだ資料を僕に差し出した。

「ここに写っているのは君で間違いないだろう。人違いである可能性は、完全に棄却できると思うが」

 

資料にはSNSの投稿が印刷されていた。表には文字と写真3枚で構成される投稿全体を示した画像が、裏にはスーツを纏った電車内で読書する僕の写真が3枚印刷されていた。投稿にはすごい数の拡散とリアクションが寄せられていた。写真にはバッチリ社章も写っていた。

これは確かに、この会社に所属する、僕という人物に間違いない。そして文章はこのような運びだった。

「この人に痴漢されました。どこの会社かわかる人いたら教えてください」

時間が止まったのを感じた。死んだんじゃないか、というくらい、世界から自分が切り離されていくのを感じた。

いや、実際は、もっと早い段階から、僕は切られていたのだ。SNSなんてそんな頻繁に見るものではない。だから僕はその刃物には気付かなかった。刃物が自分に切り込んできているのに、僕は気づかなかった。

気付いた頃にはもう遅い。うん十万という数の人が僕の顔と「僕のなせる業」、僕の所属する組織を知ってしまった。投稿も削除され、今となっては、誰がその刃物を握っていたのか知る由もないだろう。

資料を見ていたとき、僕は一体どのような表情をしていたのだろう。資料の中の僕は僕を置き去りにして先に死んでいた。自分はその時、写真の自分と、全く同じ表情をしていたのではないだろうか。