動摩擦係数

生きています

よく切れる刃物

「ここに呼び出された時点で心当たりはあると思うが」

革製の椅子に深く腰掛けた役員が机越しに話しかけている。皮の椅子を装備した3人の役員という権力の塊に、パイプ椅子の僕が対面している。

4年前の最終面接の光景が蘇る。入社してから役員と話すことなど一度もなかった。最終面接以来のご対面である。そう考えると不思議なものだ、入社してすらいない段階でしか、会社の上層部と会うことがないというのは。

「今回の事態を踏まえ、マネジメントの方で、君の処分を検討してきた」

いや、心当たりなどない。彼らが何の話をしているのか分からない。

何も知らない僕と対照的に、役員たちは全てを知っているようだった。彼らの前の机上には何やら資料が拡げられているが、既にそれらに目を通したようで、彼らの乾いた視線は僕に注がれている。全てを吸い取られた資料は死んだようにそこに横たわっている。

「君はいい働きぶりを見せてくれた。周囲からの信頼も厚かった。しかし、今回の案件で我々の企業イメージに疵がついたことも間違いない」

まるで全世界が了解しているかのように勝手に話が進んでいく。

「会社としても、けじめをつけなければならない。君には、自主的に退職してもらうか、グループ内の別の部署への出向辞令を呑むか、この2つから選んでもらう」

雰囲気から察するに、出向というのは事実上の左遷だろう。しかしさっきから、一体誰の話をしているのだろう。これは本当に僕についての話なのだろうか。

別の役員が、二枚の紙を僕の方へと滑らせた。それはいらない。手元に置いてあるその資料。誰も見ていないその死んだ資料を、僕によこせ。

「簡単な話、このどちらかに署名して、明日までに提出してくれればいい」

退職願と、辞令の承諾書。静電気のせいか、紙はリニアモーターカーの車両のように滑らかな動きでこちらへ滑ってくる。その紙は、切れ味の良い研ぎ澄まされたナイフのように、スーッと脳に侵入してきた。気付いた頃にはもう遅い、そんなセリフが似合うと思った。

「何か言いたいことはあるか」

そのメタファーを連想して、これは自分に起きていることなんじゃないかと初めて気付いた。ここで抵抗しなければ僕は確実に死ぬ。そう確信し、言葉を発した。

「あの…何の案件で自分の責任が問われているのか理解ができません。人違いではありませんか?」

役員の表情が変わる。

「君、本当にそれを言っているのか」

「あれだけ拡散されておいて、なお白を切るつもりか」

「君がそういう人間だとは思わなかった…」

「いや、逆に、説明がついた気がするよ」

最初に言葉を発した役員が、死んだ資料を僕に差し出した。

「ここに写っているのは君で間違いないだろう。人違いである可能性は、完全に棄却できると思うが」

 

資料にはSNSの投稿が印刷されていた。表には文字と写真3枚で構成される投稿全体を示した画像が、裏にはスーツを纏った電車内で読書する僕の写真が3枚印刷されていた。投稿にはすごい数の拡散とリアクションが寄せられていた。写真にはバッチリ社章も写っていた。

これは確かに、この会社に所属する、僕という人物に間違いない。そして文章はこのような運びだった。

「この人に痴漢されました。どこの会社かわかる人いたら教えてください」

時間が止まったのを感じた。死んだんじゃないか、というくらい、世界から自分が切り離されていくのを感じた。

いや、実際は、もっと早い段階から、僕は切られていたのだ。SNSなんてそんな頻繁に見るものではない。だから僕はその刃物には気付かなかった。刃物が自分に切り込んできているのに、僕は気づかなかった。

気付いた頃にはもう遅い。うん十万という数の人が僕の顔と「僕のなせる業」、僕の所属する組織を知ってしまった。投稿も削除され、今となっては、誰がその刃物を握っていたのか知る由もないだろう。

資料を見ていたとき、僕は一体どのような表情をしていたのだろう。資料の中の僕は僕を置き去りにして先に死んでいた。自分はその時、写真の自分と、全く同じ表情をしていたのではないだろうか。

 

爽やかな曇り

青空が憎い。こっちは地べたで汚らしく生きているというのに、晴天の青空は何よりも美しく、純粋で、透き通っている。あれが理想で、現実の自分はこのザマだ。青天を見ると地上に住む自分の汚さを味わう羽目になる。当てつけだ。

だから曇りには親近感を覚える。かといって、どんよりとした曇りが好きなわけではない。雲で少し汚れているくらいの青空がいい。眩しいと思ったら雲影に隠れれば良いし、暗くて陰鬱な気分になったら日に当たれば良い。

自分の中に常にある一定の暗がりと明るみ。それらが共存している状態でしか、僕は存在できない。

ある憂鬱な問い

Q. あなたの大切な人は、どれに分類されるか答えよ

  1. いじめに加担する人
  2. いじめを見ていないふりをする人
  3. いじめに立ち向かうが返り討ちに遭って壊れてしまう人
  4. いじめに立ち向かい、返り討ちに遭ってもなお立ち向かえる人